1:韓国からの便り
2:新説を出せる日も近いぞー日本史演習フィールドワークからー
3:海外調査旅行報告―― 寧夏回族自治区縦断記 その1――
4:正門前からバスに乗ってみよう
日本東アジア比較文化学科専任教員が、演習の一環として、あるいは個人として行っているフィールドワークについての報告です。今後、随時、掲載していきます。
1:韓国からの便り
大野淳一
日本・東アジア比較文化学科の大野です。ただいま韓国ソウル市の高麗大学校(「校」が付くのが正式な名称です)に滞在中。これから数回にわたってこちらの様子をレポートする事になりました。
高麗大学が韓国有数の名門である事、武蔵との間に交換学生の協定がある事(今年も数名の学生が武蔵で勉強中ですよね)、語学留学の受け入れ先である事は皆さんご存じでしょう。写真はそうした制度を利用して高麗に来たメンバーです。右手前がソウルまで激励に来てくださった、韓国語の鄭英子先生、左の奥が大野、若い4人は交換学生の院生K君、語学留学のI君、K君、海外研修でソウル滞在中だったIさん、武蔵@韓国の集団で盛り上がっているところです。
I君、K君、大野の3人は8月の3週間のコース(日本人のための韓国語特別課程)で勉強したのですが、わたしはその前から来ていたので4月から10週間のコース、7月の短期集中課程にも出席しました。
 皆で記念撮影 |
今回書きたいのはその時の体験です。先生から「7月はアメリカ人が多い」というい話を聞いていたが、教室へ行ってみると、白人風が2、3人、あとはみんなアジア系の顔。「?」と思っていたが、先生が出席を取り、簡単な自己紹介をさせると、アジア系の大半は在米韓国人。夏休みを利用して韓国の大学に来るアメリカ人が大勢おり、そのほとんどが在米韓国人という事だった。考えてみれば、4月のコースの多数派は日本からの学生だが、相当数の在日韓国人が含まれている。現在、在米韓国人は在日韓国人より多いのでだから、これは納得が行く。ところが、授業がはじまると、また驚く事が。
この在米韓国人たち、多少ブロークンですが会話が実に達者! クラス分けのテストはしているのに、「なんでこんなのが自分と同じクラスに!?」とかなり焦る。しかし、読解や書き取りになると、別の意味で、「なんでこんなのが自分と同じクラスに?」という気分になった。4月のクラスに在日韓国人が数人いたが、こんな事はなかった。
推測するに、こういう事らしい。在米韓国人は、在日に比べて歴史がまだ短い。彼らのお父さんお母さんは韓国生まれ、韓国育ち、家庭では韓国語を使う機会も多いらしい。在日のように、お父さんお母さんが(場合によってはお祖父さんたちですら)日本生まれ・日本育ちというのとはだいぶ事情が違う。その息子、娘である彼らも家庭内で自然に韓国語を覚える。だが彼らもアメリカに暮らすアメリカ人だから、読み書きも含めて完璧にマスターすべきことばは英語であって韓国語ではない。お父さんお母さんも読み書きを教えるまでは手が回らない。これが会話と読み書きの落差の背景になっている……。
「しかし、それでも母国のことばを……」という気持ちが韓国留学に繋がったのだろう、特にお父さん世代の気持ちを考えると。
出席を取ると、姓はPark(朴)やLee(李)なのだが、名前はTomだったりBettyだったりする。先生が「Korean nameはないのか」と訊くと、デヒョンとかナヨンとか答える(中には 「ない」と答える学生もいて、ちょっと驚いた)。
先生から「みんな初対面だから、自己紹介も含めて、隣の学生と韓国語で会話しろ」という課題が出る。隣は在米の若い女の子。
「君の名前は?」
「チョンヒ」
「漢字ではどう書くの?」
「知らな~い」と、日本語で言ったわけではないがそんな感じの答えが返ってくる。多分「清姫」だろうと漢字を書いてやり、「姫はprincessだ」というと、「It's me!」と英語で喜ぶ。
この話、もう少し続けます。なお、上の清姫嬢は「このクラスは合わない」と別のクラスに行きましたが、卒業式のパーティーで再会、「Hi, Princess!」「Hi, Professor!」と声を掛け合い、hugして名残を惜しみました。
2:新説を出せる日も近いぞー日本史演習フィールドワークからー
「安土桃山時代」と聞いて、信長の安土城を知らない人はないでしょう。「安土」は近江国、今の滋賀県にありますね。それでは「桃山」ってどこですか。「桃山城」という城はあったのですか。そんなものは歴史的に存在しませんでした。秀吉の時代「桃山」なんて地名はありません。正しくは、秀吉が京都の伏見に築いた「伏見城」のことです。伏見は大坂と並び、いやそれ以上に重要な首都としての役割をになった時期があります。江戸時代になって城が壊された後に、ここには桃が植えられました。それが名所となってはじめて「桃山」とよばれるようになったのです。ですから「安土桃山時代」は正しくは「安土伏見時代」というべきなのですね。
 明治天皇陵正面石段の最上段にて。ここからは南方が一望できるはず。ここに本丸を築いた秀吉もきっとそうしただろう。残念なことに、今はうっそうたる樹々に阻まれて視界は30度。 |
 江戸時代の古地図を広げる。さあ、この辺はどこにあたるのか。伏見奉行所か? この道はどこへ? 坂はどうなっている? |
私たち日本史演習II のゼミでは、今年の夏もカンカン輝りの下、伏見のフィールドワーク調査を行いました。「秀吉がつくった伏見城とその城下町を調べる」のかというと、大ちがいです。その逆です。秀吉は城をつくるにあたって、それ以前からあった九つの村や寺、神社、道や関、港などすべてこわしたり、移転したりして、自分の構想にあうようにつくりかえてしまいました。川も大きくつけかえ近くに引いてきました。もちろんそれまでの地名は全く残りません。そんな秀吉が消し去ってしまった世界を復元しようというのが、私たちのゼミのフィールドワークの目標なのです。
伏見は秀吉や家康によって大きく変えられてしまっただけではありません。秀吉がつくった城の中心部分は今は明治天皇自身の意志によって、天皇が眠る陵墓となっています。同じ丘陵には桓武天皇の陵もあります。平安京をはじめた人、そしてその京都から東京に「遷都」し「平安京」を名実ともに終わらせた人、この両方が秀吉の伏見城の地下に眠っていることになるのです。そんなわけで伏見丘陵の大部分は今は宮内庁が管理していて、広大な土地に私たちが立ち入ることはとてもむずかしいのが現状です。
 観月橋から宇治川を見る。深い。これだけの川を秀吉はつけかえた。左の丘に伏見城を築いたが、大地震で倒壊。翌日からはさらに大々的な築城にとりかかった。ここが凡人とはちがう。 |
徹底的に変えられ、それ以前の痕跡は何も残っていないような所、しかも立ち入り禁止区域がいっぱいある所を、私たちは室町時代の日記や古文書、江戸時代の地図や地誌などをたんねんに読みこみ、仮説を立てて、現地で成り立つかどうか、観察し、比較検討しながら、復元を試みているわけです。もちろん発掘調査が行われているような所での観察や聞き取りは絶対に落とせません。
 清涼院の庭にて。小さな尼寺だが、私たちはとても注目している。江戸時代の道標や碑が幾つもある。寺は尾張徳川家にゆかりがあり、初代義直はこの辺りで生まれた。 |
近年、歴史では城研究、都市研究がブームで、秀吉時代の伏見はかなりのことがわかってきました。ところが不思議なことに、それ以前がいったいどうなっていたのかなんて深く考えてみようとする人はゼロにも近いのです。むずかしすぎるからです。そんな無理とも思えることを私たちは牛の歩みのように進めています。そして確実に新しい発見を積み重ねてきています。これまで何となく受け入れられてきたような通説、俗説をはっきり否定して、新説を立てる日も近づいています。今ここで発表するわけにはいきませんが、その日は遠くありません。皆さんも、こんなゼミに参加して苦労しながら楽しんでみませんか。
 大きな発掘はなかなかむつかしい土地だが、ここは珍しい。秀吉、家康時代の武家屋敷の跡。 |
3:海外調査旅行報告―― 寧夏回族自治区縦断記 その1――
黒岩 高
 ①銀川市南関清真大寺(モスク)礼拝殿 |
8月27日から9月9日の間、調査旅行に行ってきました。主な調査地は中国寧夏回族自治区で、中国近代史が専門の吉澤誠一郎さん(東京大学)が同行しました。主な調査テーマは「西部開発の中での民族文化」ですが、それに関連するサブ・テーマとして「小経(小児錦)の使用・流通状況」がありました。「小経」というのは、回族、東郷族などイスラームを信奉する民族が伝統的に用いてきた表記法で、主に漢語をアラビア文字で表します。
今回は、調査旅行といっても来年度以降の本格調査のための「アタリ」をつける予備調査でしたので、寧夏回族自治区を縦断する形で首都銀川市から、同心県、固原市、そして甘肅省平涼市へと抜けました。以下では、調査の際の感想を交えつつ各地の建築物・風景などを紹介していきましょう。
1.銀川市旧城区
銀川は西夏王国の首都興慶ゆかりの古い町で、市の中心部は旧城区と新城区に分かれています。今回は、旧城区で南関清真大寺、清真中大寺、新華清真大寺などのモスク(中国ではモスク[正確にはマスジド、ジャーミー]を清真寺と呼びます)を訪問しました。ここでは、南関清真大寺(写真①)を中心に紹介しておきましょう。
南関清真大寺は銀川で最大規模のモスクで、大通りに面していますが、ちょっとした参道を抜けるとうってかわって、写真のような閑静なたたずまいを見せます。また、さすがは市内最大級のモスクというだけあって、周辺には「宗教道具店」 (写真②)をはじめ、ハラール・ミート(イスラームに照らして合法な食肉)の卸売市場(写真③)や回民公墓(イスラーム信徒用の墓地)の受付(写真④)、「回回古医法」(中国ムスリム伝統の医学;漢方の中にも確固とした位置を占めているようです)用の薬局、家畜・養魚用の薬局などがひしめいており、一大センターの役割を果たしている様子がうかがえました。
 ②銀川市南関清真寺向かいの「宗教道具店」 |
 ③ハラール・ミート卸売市場 |
さて、初めて訪問する地域で調査の起点の一つとなるのがモスク脇にある「宗教道具店」(写真②)です。「宗教道具店」(ムスリム用品店、経書店など各店で様々な看板を掲げています)とは、ムスリム(イスラーム信徒)のための礼拝関連用品やイスラーム関係書籍、CD・DVDなどを扱う商店のことです。「たかが商店」と思われがちですが、実はその地域のイスラーム文化・知識の発信地の一つとして機能している場合も多いのです。また、その店主にしても、イスラーム知識に関する媒体を一手に取り扱うわけですから、相応の見識を備え、各方面に顔が利く場合も少なくはありません。銀川については、その期待はやや裏切られた感がありますが、後に紹介する同心や固原では、「宗教道具店」で今後の調査につながる情報を得ることができました。
 ④回民公墓事務所 |
2.同心県
 ⑤同心清真大寺図 |
同心県は人口37万人余りの県で、80%強を回族が占め、その他、漢族やモンゴル族が居住しています。人口はそれほど多くはありませんが、中共の「民族自治」という点からみると由緒正しい地域といえます。というのも、中華人民共和国の成立に先立つこと13年の1936年に西征中の共産党軍が写真⑤の同心清真大寺で代表大会を開き、豫海県回民自治政府――最も早く設けられた県クラスの自治政府――を発足させているのです。
さて、写真⑤からもわかるように同心清真大寺は明清代以来の中国建築(宮殿様式と呼ばれます)の姿を留めていますが、寧夏の都市部ではそうした例はごく限られています。多くのモスクは「文化大革命」時代に徹底して破壊・転用(倉庫等)され、再建時には西アジア風の建物に改められているのです。
 ⑥モスク風商場(デパート) |
同心県滞在中、いや、この調査旅行中で我々を最も驚かせたのは写真⑥の風景です。ちょっと、その時の状況を再現してみましょう。
K:ちょっと、バスの3時間が応えたかな、足が重い。 Y:道のせいもあるよ、これはひどい(開発中で凸凹、土煙もすごい)。 K:とりあえず、もう一軒だけ清真寺(モスク)に行っときましょうか。(微かに見える円頂部を指しつつ)あそこに三日月が立ってるから・・・。それにしても、趣味が悪いな、金ぴかだよ。 Y:まあ、行くだけ行っておきましょう。 10分ほど歩くと全貌が見えてくる。 K:あれは・・・。モスクじゃないよ・・・ Y:そんなはずは・・・。ちゃんと三日月が・・・、本当だ商場(デパート)って書いてある。 両名、驚きのあまりしばし絶句。進んでみると同様の建物が、さらに4つも…。
中国ムスリムの集住地域でモスクを見つける場合には、屋根上の三日月(仏寺なら相輪・九輪の宝珠にあたるでしょうか)をよく目印にします。私達は軽く三ケタを超える数のモスクを訪問しましたが、三日月のないモスクはあっても、「三日月のたっているドーム上の屋根」を持つ建物がモスクではないことは初めてです。
また、近年、西北開発の進展の中で「民族色」、「地方色」のある開発が重視されるようになっているのは確かですが、いかに人口の八割をムスリムが占めるとはいえ、目抜き通りのデパート群がすべてモスク風とは…。このデパート群建設の顛末については、次回、ぜひ、関係者や住民に聞き取り調査をしてみたいと思っています。
また、近年、西北開発の進展の中で「民族色」、「地方色」のある開発が重視されるようになっているのは確かですが、いかに人口の八割をムスリムが占めるとはいえ、目抜き通りのデパート群がすべてモスク風とは…。このデパート群建設の顛末については、次回、ぜひ、関係者や住民に聞き取り調査をしてみたいと思っています。
4:正門前からバスに乗ってみよう
小川栄一
みなさん、武蔵大学の正門前にはバス停があります。ここから新宿駅西口行きの都営バス(白61練馬車庫前始発)が出ているのをご存じですか。実はこのバスで新宿まで行くのはたいへんです。かなり遠回りのルートで、途中の交通渋滞もひどいからです。それにもかかわらず、本数が多く、約10分に1本の間隔で運行しているのは不思議です。このバスは実に多くの地点を経由して利用客も多いのです。
主な経由地を紹介しましょう。( )内はバス停の名。
JR目白駅(目白駅前) → 学習院大学(目白警察署前) → 日本女子大学(日本女子大前) → 椿山荘(椿山荘前) → 漱石公園(牛込保健センター) → 厚生年金会館(厚生年金会館前) → 歌舞伎町(歌舞伎町)
このバスに乗ると、繁華街だけでなく下町も通るので、大都会東京の素顔を見ることができます。大学前の千川通りを目白駅の方に行くと一方通行になってしまうなど、意外な発見もあります。要するに、とてもおもしろい路線なのです。 その中からおすすめのスポットを一つ紹介しましょう。
 武蔵大学前から牛込保健センター下車徒歩1分 |
漱石公園です。「牛込保健センター」で下車してください。バス停反対側の脇道を入ってすぐです。(地図参照) 漱石公園(新宿区早稲田南町)は、彼が東大講師を辞して朝日新聞社員になった年、明治40年9月から大正5年12月に亡くなるまで住んだ家(漱石山房)のあった所です。漱石はここで坑夫、三四郎、それから、行人、こころ、道草、明暗など名作の数々を書きました。この家には漱石の没後も家族の人たちが住んでいましたが、残念ながら昭和20年1月の空襲で焼けてしまいました。 先日、バスで漱石公園に行ってみました。都心近くとはいえ静かな住宅街にありました。この落ち着いた雰囲気の中で多くの傑作が生まれたかと思うと感無量です。園内には漱石の胸像があって、漱石が今もここに生きているかのようです(なお新宿区によって漱石山房を復元する計画があるそうです)。
 漱石公園で漱石先生と記念撮影 |
さらに足をのばして、10分ほど歩いた所にある「漱石誕生の地」(漱石生家跡)や、早稲田から都電荒川線に乗って漱石の墓(雑司ヶ谷墓地)、さらに、「吾輩は猫である」を執筆した「猫の家」跡(文京区千駄木)などにも行ってきました。みなさんも武蔵大学前からバスに乗って出かけてみませんか。(文と写真 小川栄一)
 漱石誕生の地(漱石公園から徒歩10分) |
 漱石の墓(雑司ヶ谷墓地) |
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